かけらを集める(仮)。

日記/旅行記+メモ帳+備忘録、みたいなものです。

 東福寺 本堂の堂本印象《雲龍図天井画》

せっかくの紅葉のシーズンだから,ということで東福寺に出かけてみました.通天橋も朝イチならばそれほど混雑していないだろうと思い,拝観開始の8:30前に東福寺のバス停に降り立ったのですが,これはちょっと甘かった.すでに陸続と観光バスがやってきては紅葉目当ての参拝客が,列をなして東福寺へと向かっていました.参拝入口の日下門の間まででも,左右にある寺院の楓などが美しく色づいて,目を楽しませてくれます.が,臥雲橋あたりでは,多くの人がカメラやカメラ付携帯電話(携帯電話付カメラ?)を構えていて,ちょっとした人だかりになっています.まあ,私もその中に入って,通天橋の方,濃く色づいた木々に目を奪われたのですが...境内に入ると,受付にははや長蛇の列(はけるのは早そうでしたが).これを見た段階で根性なしの私は早くも通天橋を断念.人の少ないところを求めて,山門と本堂(仏殿兼法堂)の見学(といっても,外からですが)に目的を切り替えることにしました.
本堂では,南面の扉が開いており,そこからご本尊を拝めるようになっています(中には入れない).といっても,そこはそれ,興味は上の方だったりするわけで,天井画を覗き込んだ次第です.本堂の天井画は,堂本印象によるもので,天井の長方形の空間のいっぱいに広がる白い雲の中から巨大な龍が宝珠を持って浮かびあがっていました.たとえば妙心寺法堂の狩野探幽の龍がどことなく可愛い(でも巨大)のに対し,もう少しねっとりとした,ややエロチックな感じのする龍でした.
【メモ】東福寺 http://www.tofukuji.jp/
東福寺法堂の龍図について】東福寺の法堂にはもともと南北朝〜室町前期の画僧,明兆(1352〜1431)による《龍図天井画》があった.これは天井の板の上に貼りつけた紙面に描かれていたらしい.天正16年(1588)に雷火のため法堂が破損し,明兆による天井画も損傷した.同年,豊臣秀吉が施主となって,法堂を修復することになり,狩野永徳(1543〜90)が天井画制作に任ぜらる.永徳は雲を描いた段階で,重病に倒れ,作業の続行ができなくなる.永徳は下絵を弟子の狩野山楽(1559〜1635.当時30歳)に授け,制作を代行させることにする.この任を受けた山楽は,損傷した明兆の天井画を剥がし,板に胡粉で地をつくり,その上に龍を描いた.山楽の《蟠龍図天井画》は数日のうちに完成し,山楽の存在は世間に大きく知られることとなった.この法堂の天井画は名作として近代まで伝えられきたが,明治14年(1881)の火災で失われる(現在,縮図が残る).その後,法堂は仏殿を兼ねた本堂として昭和9年(1934)に再建.これが現在の建物で,昭和期最大の木造建築.天井画もこの再建時に堂本印象(1891〜1975)によって新しく描かれる.これが現在の《雲竜図天井画》で,描かれた龍の大きさは体長54メートル,胴回り6.2メール.