かけらを集める(仮)。

日記/旅行記+メモ帳+備忘録、みたいなものです。

別府→大分

  • 8:00過ぎに起床。身支度をして、1Fの朝食会場へ。朝食は、おにぎり2個、味噌汁、漬け物、お総菜1品の軽いものだが、なかなかおいしい。一度部屋に戻り、一息ついて、9:00前にチェックアウト。曇りがちだが、雨の心配はなさそう。
  • というわけで、まずは別府にて彫刻放浪である。西口を少し歩いたところに、岡本太郎の陶板壁画がある。今日は、ここから。ネットで検索していたら、岡本太郎の野外設置の作品は九州に4件あるとのことで、そのうちの1件。


サンドラックビルの、岡本太郎《緑の太陽》(1969)

  • 続いて、歩いて10分ほどの別府市公会堂へ。途中にコンビニがあり、ここでコーヒーなど。公会堂は最近改修が終わり、建設当初の1928年(昭和3)の姿に復元され、名称も中央公民館・市民会館から当初の別府市公会堂に改められたとのこと(2017年4月1日オープン)。今日は、どこかの幼稚園がイベントで使うらしく、先生がたがちょうど公会堂内にいろいろと搬入しているところだった。公会堂前に、朝倉文夫門下の長谷秀雄による《裸婦像》が設置されている。別府は、野外彫刻があまり多くはないようだが、その1つ。続いて、別府公園を通り抜け、ビーコンプラザの正面口に設置された朝倉響子作品を観覧。これ、けっこういい。次は、市役所まで歩き、ここで朝倉文夫《頬》を観る。このあたりは、昨年の「in 別府」の会場が市役所内だったので、ふらふらとうろついた記憶があるのだが、野外彫刻はマイブーム以前なので、あまりよく観ていない笑 《頬》は、以前は別府駅東口広場にあったそうだが、東口改修にともない、今ある《油屋熊八の像》と入れ替わりに市役所南側に移設されたようだ。いずれにししても、朝倉文夫大分県豊後大野市出身なので、大分には、朝倉文夫の野外彫刻/銅像が数多い。


朝倉響子《Summer》(1984

ビーコンプラ

朝倉文夫《頬》(1920/1971設置、後に移設)

  • ぼちぼちと10:00になるので、続いて「西野達 in 別府」の展示作品を回ることにする。昨日、別府駅構内のインフォメーションセンターで入手したマップをたよりに作品を観て回ることにする。マップによると、過去の混浴温泉世界の設置作品や関連展示も観られるようである。発砲スチロールの白い家、《残るのはいい思い出ばかり》→油屋熊八の像や駅前の足湯を取り込んだインスタレーション《油屋ホテル》→別府の商店街/飲み屋街に散在する、西野達別府秘宝写真館、や関連展示→電柱に軽自動車他が串刺しになった《別府の魅力から逃れられるか?》と回り、最後にトキワ屋上の淺井裕介《海と山の間で生きている》(2015)を再訪して、終わりとする。


西野達 in 別府


トキハ屋上の、淺井裕介《海と山の間で生きている》(2015)。土曜日だったが、トキワの屋上には、誰もいなかった…

  • 別府駅に戻り、12:07発の各停に乗車。大分まで280円。電車は2両編成で、土曜日のためか、若い人で混んでいた。20分弱で大分駅に到着。
  • まずは、腹拵えとばかりに、五車堂へ行き、ここで五車堂ランチを食らう。900円。少し値上がりしたかな? また、チケショで、空港行きのバスの回数券を購入。1200円。往復で買うと、2200円。4枚回数券(4100円)のばら売りだった。ちなみに片道料金は1550円。


ここのところ、大分に来ると一食はここで食べる。めちゃくちゃ美味しい、とても安い、というわけでもないが、なんとなく気が合う感じ。

  • さて、午後の前半は彫刻放浪である。まずは駅前に戻り、府内中央口(北口)広場の富永直樹《大友宗麟像》(1982)から。近年の大分駅周辺の再整備で、少し位置が変わり、台座が低くなり、以前よりよく見えるようになったらしい。すぐ近くに、両手を広げた、雨宮透《聖フランシスコ ザビエル》(2015)がある。こちらは台座がごく低く、目前で観ることができた。新作設置は、最近の大分市では珍しいのではないかな。大分市の野外彫刻で、大友宗麟フランシスコ・ザビエル銅像は他にもいくつかあるようだ。


雨宮透《聖フランシスコ ザビエル》(2015)。これはニュースにもなったので、有名な話だが、作家は当初設置されたものの鋳造の出来映えが気に入らず、自費で再鋳造、再設置している。台座が低いので、とてもフレンドリー笑 最初に行ったときはザビエル師の足下で高校生3人が座り込んで弁当食っていたぐらい、フレンドリー笑

  • 続いて、大分駅の構内を抜けて、上野の森口(南口)へ。こちら側も近年整備され、駅前から上野丘まで、芝生公園(大分いこいの道)になっている。駅前に、朝倉文夫《青年像》、大分いこいの道に、朝倉文夫《あこがれ》、北村西望《健康美》が設置されている(いずれも移設)。この3像の移設経緯については、簡単ではあるが、台座に残してあった。これはとてもいい。


朝倉文夫《青年像》(1956/1958設置・2015移設) 当初は北口広場に設置されていたが、駅周辺の再開発のため、2015年南口駅前広場に移設。台座の説明板によると、1957年に開催された朝倉文夫の彫塑50年回顧展の出展作を、朝倉文夫自身が大分市に寄贈し、それを受けて、ちょうど新築された駅前に設置されたとのこと。説明板は、当時市長の上田保の記名。


朝倉文夫《あこがれ》(1958/1966設置・2015移設) 1966年大分文化会館ロビーに設置されたが、同館廃止にともない一時保管、2015年大分いこいの道に移設された。


北村西望《健康美》(1930/1969設置・2015移設) こちらも当初は北口広場に設置されていたが、2015年大分いこいの道に移設。おい西望、大分は朝倉のシマだろうが…笑 大分出身の朝倉文夫はもちろんたくさん設置されていたのだが、長崎県出身の北村西望銅像も多かった。また、この銅像には「西望」69鋳」とあった。鋳造年が入っているのは珍しいかも。初めて見た。まあ、野外彫刻の場合、台座が高いとかで、物理的に見えない場合も多いのだが…

  • ここで、遊歩公園に移動。遊歩公園は、大分城趾から南へ延びる大手通りの中央にある緑道で、ここに銅像・記念碑レリーフが多く設置されている。ここを南から順に観て回る。ただ、いちばん南にあるはずの朝倉文夫《姉妹》はちょうど周辺が工事中で見ることができなかった(場所を間違えたかもしれないが…)。では見た順に(南側から)。


圓鍔勝三《育児院と牛乳の記念碑》(1973) 設置にあたっての、新作!


舟越保武《西洋劇発祥記念碑》(1974) これも新作!


朝倉文夫滝廉太郎君像》(1950)

北側に1つ通りを渡ったところが、滝廉太郎終焉の地、だった。



朝倉文夫《生誕》(1946/1986設置) これは遊歩公園ではなく、大手通り沿いにあるコンパルホールに設置されている。今回は後方からの写真を。なお、メンテのプロジェクトについての解説が隣に掲示してあったので、参考にこの写真も載せておこう。


古賀忠雄《西洋医術発祥記念像》(1972) 新作!


北村西望《健ちゃん》(1918/1969設置) ここにもあった。《健ちゃん》、またの名を、《将軍の孫》、は、超人気作で、いろんなところにあって、追い切れない。しかも、スケールダウンした銅像が個人向けに頒布されたようで、ヤフオクあたりにもどっさり…。《健ちゃん》の名称は、上田保が西望の許しを得て、命名したらしい。子どもたちが健やかであってほしいという願いを込めての命名だとか。


朝倉文夫《みどりのかげ》(1925/1985設置) 台座の説明板によると、1950年に白セメントの《みどりのかげ》が設置されたが、風化が激しいため、ブロンズで鋳造し直し、1985年に置き換えたとのこと。寄贈はライオンズクラブ。へちゃむくれなところが、ちょっとカワイイ… 追記(2019.12.6):白セメント製のオリジナルは、撤去後、豊後大野市に寄贈され、修復の後、現在、豊後大野市朝倉文夫記念館(展示室内)に展示されている(2019.12.5訪問)。


北村西望《伊東ドン・マンショ像》(1975) 新作!


富永直樹《西洋音楽発祥記念碑》(1971) 新作! 大手通りに面した県庁舎の北西角に設置。


佐藤忠良聖フランシスコ・ザビエル像》(1969) 新作! 大手通りに面した大手公園の北東角に設置。

  • この後、大分城趾にも行ってみたのだが、なにやら仮設の天守再現…の工事とかやっていて、通り抜けるのがやっとで、野外彫刻は見られず、少々心残り。市役所周辺もチェック。本当は、中にも、朝倉文夫花の影》他の彫刻があるらしいとの情報を得ていたのだが、今日が土曜日のため、中に入ることもできず、確かめられなかった。ちょっと残念だった。次回の課題とする(って、また来るのか?)


おっと、市役所裏に新聞少年が… 長谷秀雄《新聞少年》(1974) これも新作。説明板によると、昭和54年10月14日新聞少年の日、に設置。って、新聞少年の日、なんてあるのか!


今回は、前を通り過ぎただけだが、磯崎新建築のアートプラザ(1966、旧大分県立大分図書館)。3Fに磯崎新関連の常設展示がある。

  • さて、ここまで見て、いいかげん気づいたのだが、これまで見た多くの彫刻が、上田保という人物による寄贈、もしくは関係が深いことがわかった(少し年のいった大分市民には自明のことかもしれない)。で、この人物について、早速ググってみる。Wikiに項目が立っていた。それによると、上田保(1894〜1980)は、弁護士、政治家。戦後、選挙で選ばれた初の大分市長で、1947〜1963の3期にわたり市長を務め、さまざまなアイデアと実行力で、大分の復興の礎を築いたとのこと(高崎山の猿の餌付けを始めたのも、彼だとか)。市長退任後は、株式会社大分生態水族館(後に株式会社マリーンパレス)の社長として大分生態水族館マリーンパレス(現在の大分マリーンパレス水族館「うみたまご」)を建設し、多くの来場者を呼び込んだ。熱心なカトリック信者であったこともあり、キリシタン殉教記念公園の建設などにも尽力した(同公園には北村西望による碑あるとのこと)。そこで、この日見てきた銅像について、改めて整理すると、次のようになる。
  • 1956 朝倉文夫《青年像》 市長として説明板に記名
  • 1969 北村西望《健ちゃん》 大分生態水族館、創業5周年として大分市に寄贈
  • 1969 佐藤忠良聖フランシスコ・ザビエル像》 大分県キリシタン史蹟顕彰会として寄贈
  • 1971 富永直樹《西洋音楽発祥記念碑》 株式会社マリーンパレス社長、創業7周年記念として大分市に寄贈
  • 1971 朝倉文夫《頬》 株式会社マリーンパレス社長、創業7周年記念として別府市に寄贈
  • 1972 古賀忠雄《西洋医術発祥記念像》 株式会社マリーンパレス社長、創業8年記念として大分市に寄贈
  • 1973 圓鍔勝三《育児院と牛乳の記念碑》 株式会社マリーンパレス社長、創業9年記念として大分市に寄贈
  • 1974 舟越保武《西洋劇発祥記念碑》 株式会社マリーンパレス取締役社長、創業10周年として大分市に寄贈
  • 1975 北村西望《伊東ドン・マンショ像》(株式会社マリーンパレス社長、創業11周年記念として大分市に寄贈
  • 1979 長谷秀夫《新聞少年》 株式会社マリーンパレス社長、創業15周年記念として寄贈
  • 大分市の野外彫刻を網羅的に見るならば、上田保の名前はもっと見つけることができるだろう。かような次第で、上田保は、大分市に野外彫刻を設置した中心人物と言えそうである。大分市の名誉市民となった上田自身の銅像(木下郁との二人像)も、大分城趾にあるようだが、前記のように何やら工事中で見ることができなかったのは少し残念。(大分駅再開発にともない、遊歩公園キリシタン関連の記念碑・銅像も駅前に移し、大友宗麟像やザビエル像ともども、キリシタン関連の野外彫刻をまとめる計画もあったようだが、これは立ち消えになった模様)
  • ここで、彫刻放浪は中断して、大分県立美術館へ向かう。3度目にして、ついに1Fの展示室A(企画展の展示室)に入る。「20世紀の総合芸術家 イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ」展を観覧。1時間30分ほど。続いて、3Fに上がり、2017 コレクション展IV「自然への憧憬」を観る。今回はコレクション展はパスするつもりだったが、館内に置かれていたチラシで、「咸宜園開塾 200 年 咸宜園ゆかりの人々」という特集展示があることを知り、急遽、観ることにした。各人一件程度の展示だったが、豊後南画の背景の一つを知ることができたように思う。最後のセクションで、朝倉文夫《三相》(1950、初出は第6回日展)が出ていた。台座なしで、直接床置きだったので、近距離でじっくりと観覧できた。ひょっとして、得るところはいちばん多かったかもしれない。



  • 空港行きのバスまで、少し時間があったので、県美の南側の大分県立総合文化センター(で、いいのかな)を抜けて、赤レンガ館まで歩く。建物の周囲は工事中だったが、建物の前にある高田博厚《ラ・メール》を観覧。中央通りにも、彫刻がいくつかあるようだが、また次に、ということにして、これで打ち止め。のつもりだったが、バス停に行く途中、もう1点、発見。作者不詳《電信電話発祥記念碑》(1981)というレリーフ作品。これは、上田保関連ではなかった。


  • 空港に向かうことにする。大分からの空港バスはいろいろなルートがあって、大分交通のHPを見ても分かりづらいが、なんとか読み解いて笑、高速道路経由でノンストップで空港へ行く便に乗ることにした。大分駅から乗ると、けっこう混み合うので、今回は一つ前の、荷揚町というバス停から乗車する。16:59発。同じことを考える人が数人いた。次に大分駅に停車する他は、ノンストップで空港まで行く。高速道路に上がるまで、少し混んでいて、時間がかかった他は順調だった。10分遅れの18:10頃、大分空港に到着。どうも、土曜日ゆえの渋滞に加え、事故もあったみたいで、たいへんな目に遭っている路線もあった模様。オレの乗ったバスはほとんど影響がなかったが、とりあえず早めに空港に向かって正解だった。


  • 空港で、適当な夕食を適当に食らい、出発まで、本を読んで時間を潰す。帰りは、ソラシドエアを利用。SNA094便、予定では、大分20:05→21:40羽田。羽田空港の混雑で少し遅れるだの、いや、大丈夫だの、アナウンスで混乱があったが、結局は時間どおりの運航。羽田空港では、バスで到着ロビーまで移動。21:45頃にはロビーに出た。出たすぐのところにバスのチケットカウンターがあった。22:00のバスに乗ることができた。最寄りには22:55頃、到着。成田からより、若干だが、時間がかからない。23:00過ぎには無事に帰宅。