かけらを集める(仮)。

日記/旅行記+メモ帳+備忘録、みたいなものです。

彫刻放浪 浅草の朝倉文夫、他

今日は、なってるハウスへ行くので、天気もいいことだし、浅草方面を回って行くことにした。浅草周辺に朝倉文夫の作品がいくつか設置されている。それが今回のお目当てだ。それにしても、アサヒアートスクエアが閉まってから、浅草に出かける機会がとんと減ってしまった。東京メトロで、浅草駅に出る。まずは浅草寺。雷門から仲店を歩く。いつものことだが、人が多い。浅草寺にお参りして、まず、境内の銅像を探索。

  • 浅草寺境内の、「慈雲の泉」(1965設置)。



近くに設置されている「讃 慈雲の泉」によると、上野公園入口に設置された「生誕噴水塔」に続き、浅草寺境内に設置されたもので、現在は植え込みの中にすっくと建っているが、「慈雲の泉」は、もともとは噴水塔だったようだ。設置された朝倉文夫《雲》(1908)は、次女の朝倉響子が寄贈したもの。「生誕噴水塔」を寄贈した上野信用金庫理事長の上條貢が資金を提供し、上野区長や浅草観光連盟、浅草寺が委員会を結成し、建立したとのこと。ちなみに、「生誕噴水塔」は、すでになく、噴水塔に設置されていた《生誕》は、今は朝倉彫塑館の入口付近に移されている。また、同じく彫塑館入口には《雲》もある。
このあたりは人も多く、植え込みに沿って、露店も出ていたので、あまりじっくりと観ることはできなかった。続いて、浅草寺の裏手に移動。さすがに人は少ない。団体バスの駐車場の近くに、《九代目 市川團十郎》像があった。


現在の像は二代目の像。初代の像は、大正8年(1919)に建立された。歌舞伎十八番の「暫」の鎌倉権五郎を演じる九代目市川團十郎の像を、新海竹太郎が制作した。台座裏に初代像のための銘板「堀越秀像銘并序」があり、森鴎外が撰し、中村不折が書している。この初代の像は、例によって昭和19年(1944)に金属供出され、融けて消えてしまった。その後、十二代市川團十郎の襲名を機に、現在の二代目の像が復元・建立された。昭和61年(1986)のことである。宇野信夫による撰文による碑がすぐ近くにある。十二代目の芝居は、海老蔵時代によく観た。その十二代目もすでに亡い。




大谷米太郎(1881〜1968)は、富山県出身の実業家。大谷重工業を創立。ホテルニューオータニを建てたのも彼。昭和39年(1964)に大谷米太郎夫妻の寄進によって、昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失した仁王門(経蔵を兼ねることから、宝蔵門と改称)が再建されるなど、浅草寺の伽藍復興に尽力した。宝蔵門には、重要文化財の「元版一切経」などが収蔵されている。この縁により、昭和42年(1967)境内に夫妻の寿像が建てられた。夫妻の胸像は、1962年に朝倉文夫により制作されたもの。この像のことは、今回うろうろしていて、初めて知った。

大谷米太郎翁寿像》の背面の朝倉文夫のサインと年記。夫人像の裏面にも同様のサインと年記がある。

  • 台東リバーサイドスポーツセンター・ロビーの《競技前》と《水の猛者》。




《競技前》(1958)。台座に「台東区制10周年記念」昭和30年5月1日建立」台東区」とある。旧東京市下谷区浅草区が合併して、台東区になったのが、1947年(昭和22)3月15日のこと。10周年なら、1957年(昭和32)でないとあれなのだが、先取りしたのかしら? また、《競技前》は、1958年(昭和33)の作なので、これまたちょっと年が合わない(足下にサインともに「1958」の年記あり)。謎だ笑 《競技前》は、ここの他にもいくつか設置されているようだが、極めつきは、警視庁の入口ロビーにあるやつかな。いつか観てみたい。


《水の猛者》(1926)。初出は第7回帝展。北村西望の《健康美》と向かい合わせに置いて、にらみ合いをさせたい笑

  • 山谷堀公園 《あこがれ》(1958/1993設置)