かけらを集める(仮)。

日記/旅行記+メモ帳+備忘録、みたいなものです。

白糠→釧路

  • 白糠、釧路に行ってきた。春の北海道シリーズ第7弾である。まだまだ続くのである。さて、今回の目的は、もちろん彫刻放浪、野外彫刻の観覧である。白糠、釧路ともに初めて行くところなので、彫刻に限らず、どんなところかというのも、また、楽しみであった。天気も上々で、楽しい旅であった。
  • さて、最寄り4:58発の始発バスで、羽田空港へ向かう。T2には、少し遅れて5:55頃到着。T2のAの保安検査場を通過して、55番ゲート付近に移動(一番遠い)。ちょっと早く来すぎたか。飛行機まで、まだ大分時間がある。静かなところを探して一寝入り。本日搭乗するのは、Air Do 71便、 羽田7:45→9:25釧路の予定。7:25頃から搭乗開始。7:50過ぎに離陸、9:07頃着陸、9:20頃には到着ロビーに出ていた。たんちょう釧路空港は初めて。滑走路は1本、ゲートは3つの、小さな空港だった。連絡バスは、飛行機の到着後、15〜25分後に出発ということなので、空港の券売機でチケットを買って、乗車して待つ。バスは阿寒バスの運行。9:40過ぎに出発。釧路市街までは行かず、今日はJR大楽毛駅前で下車する。15分ほどで到着。480円。ここで、JRに乗り換え、最初の目的地、白糠までは、大楽毛10:25発のJRで向かう。なにせ、列車の本数が少ないので、飛行機が遅れるなどして、無事に乗り継げるか、心配だったが、余裕をもって乗り換えられた。
  • 大楽毛駅前の日本釧路種 釧路地方は馬の生産がかつて盛んで、軍馬や農耕馬などを供給していた。1911年(明治44)からは、大楽毛で馬市が開かれ、その規模は日本最大のものだったそうだ。また、日本人の使役にあった馬の品種改良も行われ、「日本釧路種」などの優秀種を生んだ。大楽毛駅前に、その「日本釧路種」の馬の銅像があった。


《日本釧路種》(1990年設置)。日本釧路種馬像建立期成会により、平成最初の午年に建立。像の制作チーム(?)は、製作:池田鎮男(釧路市・末広屋)、原型:田畑功(高岡市・日本彫刻会会員)、鋳造:守護健(高岡市・日本銅器株式会社)、台座:諸我秀夫(釧路市・諸我石材店)(以上は台座記載による)。田畑功による銅像は全国に5000はくだらないと聞いたことがあるけれど、歴史的人物の肖像や裸婦・股間若衆のような芸術系(!?)だけでなく、さらに馬像まであるのか…なお大楽毛には他にも馬の品種改良に功績のあった神八三郎氏の銅像などもあるようだが、さすがに時間がなく、観ることはできなかった。

  • JR大楽毛10:25発の帯広行きに乗車。10:53に白糠に到着。380円。列車は1両編成、ワンマンでの運行。乗客はそれほど多くなかった。白糠での目的地は2箇所、ともに本郷新作品の観覧。ただ、釧路行の列車が12:42発なので、それまでに駅まで戻る必要がある。あまり時間に余裕がない。まず、駅の西の方、歩いて20分ほどのところの、坂の丘公苑にある《太陽の手》を観に行く。



  • 白糠南通り商店街駐車場の2基の國松明日香 駅から歩き出すと、近くの駐車場に見たことのあるような作品があった。國松明日香作品だ。しかも、駐車場の奧に、もう1基ある。意外なところで、出会った。ともに銘板はあったが、作者、タイトル、年の記載のみで、設置の経緯はわからない。



國松明日香《若草と馬》(1989)


國松明日香《鉄路の響》(1989)

  • 白糠町・坂の丘公苑の、本郷新《太陽の手》 駅前から徒歩で、20分ほどで、到着。SVでシミュレーションしておいたので、迷うこともなかった。《太陽の手》は小高い丘の上に設置されており、途中からも木の間からちらちらとそれらしきものが見えた。坂の丘公苑(霊園)の入口から道が上りになり、ちょっと息が切れる。ちょうど造園業者が雑草刈りの最中で、作業をしていたが、到着する頃には、昼休みに入り、自動車に分乗して、さっといなくなった。南の方、海までのあいだは芝地が広がり、ちょっと歩くつもりでいたのだが、海霧で白く覆われ、視界が奪われてしまった。水滴のつぶがはっきりわかり、冷たい。




本郷新《太陽の手》(1966/1966.8設置)。《太陽の手》は、白糠町開基80周年記念に、白糠町の開拓先駆者や功労者の事績を讃え、感謝することを目的に設置された顕彰碑。「太陽の手由来」(説明板)には、「〜たくましい開拓の手これは過去現在将来に共通する発展の象徴であり歴史である.」天高く太陽を求め幸を築くことを希望するものである.」とある。1993年1月15日の釧路沖地震に際して、手首部分から落下、倒壊したが、1994年10月石膏家の松平実により修復された、とのこと。なお、白糠町のHPを見ると、町のキャッチフレーズが「笑顔輝く太陽のまち」とあり、白糠漁港やしそ畑とともに、この《太陽の手》の画像が出てくる。設置以後、町の重要なシンボルの一つになっていることがよくわかる。

白糠町のマンホールの蓋は、いくつか図柄があったが、その中に《太陽の手》を描いたものもあった。

  • 白糠町・岬の森東山公園の本郷新《望洋の碑》 一度、駅方向に戻り、次は東側に歩き、石炭岬の岬の森東山公園に向かう。公園の入口は駅から5分もあれば、到着するが、ここからが、小登山になる笑 時間にすれば、15分も歩けば、目的の《望洋の碑》のある展望広場に出るが、上り道でちょっとたいへん。のんびりぶらぶら行けば、それほど大変でもないのだろうが、列車の時間が迫ってきており、しゃかりきになって上ったせいもあるが… 行き当たったところがが広場になっていて、ここから白糠の町が一望できる。ただ、この日は海霧で白くかすんで眼下の漁港がようやく見えるだけ。《望洋の碑》を観覧した後、汗を拭うひまもなく、あわてて駅に向かう。


眼下に白くかすんで見える白糠漁港。 







白糠漁業協同組合創立20周年記念《望洋の碑》(1969/1969.8.12設置)。白糠漁業協同組合が創立20周年記念に建立。設計・彫刻は本郷新。

  • 白糠→釧路 昼を過ぎて、いいかげん腹ぺこなのだが、どこかで何かを食べていく時間がない。やむなく(というか、いつも通り、か)駅近くのコンビニでおにぎりを買って、白糠駅に到着。きっぷを買って、そのまま、改札を済ませ、ホームへ向かう。なんとか間に合った。JR白糠12:42→13:16釧路。540円。2両編成のワンマン列車だった。途中、車窓から河原の牧草地で、のんびり草を食んでいる馬の姿が見えた。オンタイムで釧路駅に到着。



  • 彫刻放浪:釧路編その1 釧路駅から16:05発の列車で釧路湿原に向かうつもり。それまでの3時間弱で、周辺の彫刻を探ることにする。駅周辺から始め、幸町公園/釧路市こども遊学館→釧路プリンスホテル/釧路市役所→幣舞橋→港文館と回り、再び幣舞橋を渡り、北詰東側のぬさまい広場あたりを見てから、近くでスパカツなどを食らい、栄町平和公園を抜け、ホテルにチェックインして(一休み)、再び駅に戻った。明日もうろうろするつもりなので、今日のところは少しだけのつもりだったのだが、思ったよりも多くの場所を回ってしまった。なお、掲載の写真は翌日撮影のものもある(明記した)。また、今回の釧路市街の彫刻を探るにあたっては、釧路市立美術館のHP内の「釧路市内の彫刻」や「釧路霧と夕日の美術館 街あるきART MAP」(PDF)、そして、先達の上げられたさまざまなネット上の情報を参照した(多謝!)。



釧路駅前の、澄川喜一《光る風》。 あっ、大柴と同じ名前なのね(宮沢喜一とも同名だが)。これから、澄川喜一のことは、(親しみを込めて)オレ的にキーチマンと呼ぶことにする笑 そういえば、羽田を飛び立った後、スカイツリーが見えたな。追記(2018.10.18):制作/設置は1987年。(『澄川喜一作品集』[講談社・2007.9]による。)




(釧路)駅前小公園の、「タンチョウ・レリーフ像」(1980.6設置)。個人の寄贈で設置。制作は長谷川工。当時の釧路市長、鰐淵俊之による撰文?に「このタンチョウ.レリーフ像は年老いし母が戦死した 愛息えの思慕の情を.丹頂鶴の愛に託して作られたものです。」とある(旧字を新字に改めた)。言いたいことはわかるが、もうちょっと、文言・用字を考えればいいものを。誰も直さないのか? 長谷川工の作品は、この他、翌日行ったマリントポスくしろ(釧路市水産資料展示室)で、漁師像を見ることができた。



釧路和商市場の通りを挟んだ西側、レンタカーのオフィスの隣から、敷地を斜めに横切る遊歩道が3ブロックほど続く。この遊歩道の周囲には、ジョゼ・デ・ギマランイスポルトガル)によるカラフルなオブジェやベンチが並んでいる(既視感のある作品だな、と思ったら、この作家の作品には瀬戸内国際芸術祭や大地の芸術祭で出会っていた)。ここは、以前は鉄道の引き込み線があったところらしい。2ブロック目の幸町公園は鉄道公園の別称があり、かつては転車台があったとのこと。公園にはSL「C58」が設置展示され、また、北海道鉄道記念塔もある。また、3ブロック目も、鉄道関係の跡地で、ここは車輌所だったが、現在では、シビックコア広場(釧路地方合同庁舎に隣接)や釧路市こども遊学館がある。

釧路市こども遊学館。2005年7月オープン。球の部分はプラネタリウムで「スターエッグ」というようだが、ちょっと驚かされたのは、そのスターエッグの下のさんさん広場。全天候型の大きな砂場があって、母親に連れられた小さなこどもたちが何人か砂遊びに夢中になっていた。



釧路プリンスホテル前の、本間武男《湿原の詩》(1993.5設置)



釧路市役所前庭の、米坂ヒデノリ《啓示》。釧路では、米坂ヒデノリの作品にたくさん出会った。その最初の作品。

  • 幣舞橋の「道東の四季」 釧路での大きなお目当てがこの「道東の四季」だった。現在の幣舞橋は、5代目で、1976年11月26日に架橋開通した。4基の大理石のオベリスクは、4代目(1928年11月3日架橋開通)のものを再利用している。市民による提案により、橋脚上に設置されたのが、この「道東の四季」像。制作は、舟越保武(《春》)、佐藤忠良(《夏》)、柳原義達(《秋》)、本郷新(《冬》)の、日本を代表する彫刻家が担当し、1977年5月3日に除幕式が行われた。(このあたり、カラスとカモメがたくさんいて、だいたい棲み分けているようだが、時にカラスがカモメの領空を侵犯して、スクランブルしたカモメに猛追されているのを見かけた…ちょっと像に爆撃痕が目だち、残念。)


幣舞橋。川下側から。



舟越保武《春》(2018.6.7撮影)



佐藤忠良《夏》(2018.6.7撮影)



柳原義達《秋》




本郷新《冬》


「道東の四季」碑。南詰め上流側。「道東の四季 この橋の上に おかれた四つの像 道東の四季は 幣舞橋を愛する 多くの人々の 努力と献身によって つくられたものである 昭和五十二年五月三日」。像建立には資金面も含め、市民運動が大きな役割を果たしたとのこと。

  • 港文館前の《啄木》 幣舞橋を渡り、港文館まで歩く。5分ほどか。港文館は1908年(明治41)に建設された旧釧路新聞社社屋を復元したもので、館内には、1908年1月21日釧路にやって来て、その後、76日間、滞在、釧路新聞の記者を勤めた、石川啄木の資料の展示などがある。それにしても、石川啄木、釧路の人々に愛されているな。この像も含め、26もの歌碑があるとのこと。


《啄木》(1972.10.14建立/1991.5移設)。石川啄木像建立期成会による。像の制作と撰文は、本郷新が担当。撰文は下記のとおり。

 啄木は思うことの多い人間であった。
 啄木は自己の感情をいつも人間の真実の中に通わせ、そこからあの底辺のひろい文学が生まれた。
 啄木はいつも世俗に抗し、精神の高揚を求めつづけた。そこからあの厳しい芸術の世界が展開された。
 円い人格ではなく、角だらけの人間であった。そういう啄木を好まぬ人でも、その作品の中に見える自負と謙虚という矛盾を一つの塊として受けとることが出来るのではないだろうか。
 詩人石川啄木は明治四十一年一月二十一日雪の釧路にひとり降り立った。
                        本郷 新

また、釧路に着いた際に啄木が詠んだ歌が彫られている。「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」。当初、この石川啄木像は、1972年の鉄道100年を記念して、幸町公園(別名:鉄道公園)に、SLと同時に設置された(歌碑にある短歌は、場所としては、こちらの方がいくぶんふさわしい)。その後、1991年5月港文館が落成に合わせ現在地に移設された、とのこと。





ちょっと、かっこよすぎ、じゃないか?


幣舞橋北詰西側の幣舞の湯(足湯)横の、松本純一《つるつる小僧》(2007.4設置)。戸田建設株式会社札幌支店の寄贈。


少し早い夕飯だが、スパカツを食らってみた。スパカツで有名な洋食屋だ。いかにもB級グルメ。もし10代の頃、学校帰りにでも、しばしば食らったなら、たしかにソウルフードになるかも。ポイントはスパゲッティの下の方、鉄板でおこげみたいになっているあたりか。まあ、腹一杯にはなった。



さて、釧路のいたるところで、タンチョウヅルの意匠に出会った。マンホールの蓋(写真上)は当然として、街路灯の柱や時計塔など、至るところにいた。写真下は、その中で、一番のお気に入り。バス停の装飾に使われていたもの。

  • 栄町平和公園の野外彫刻 午後の彫刻放浪の最後、本日宿泊のホテルにチェックインした後、すぐ近くの栄町平和公園を探ってみた。



公園の西南にある不思議な石像。四方を向く四つの頭部からなる石像で、一つの石から掘り出している。銘板の類もなく、サインの類も見当たらないので、これだけだと、何が何だかよくわからない。何かの古い建築の装飾彫刻を切り出して、台座の上に設置し直した、という感もあるが、どうだろう(妄想ですが、1945年7月14、15日の釧路空襲で倒壊した建物の一部だったとか…)? ネット上の先達の情報によると、作者は米坂ヒデノリで、少女の頭部を彫ったものであるらしい。「少女」と言われれば、そうなのかと思うが、風化のためか、傷みもあり、髪が長い(それでもショートヘア)他は、あまり少女という感じでもない。設置場所が平和公園なので、何か、モニュメンタルないわれがあるのだろうか?(だとしたら、説明板があるはず。)謎だ…


「釧路 平和のモニュメント・戦災記念碑」。1995年8月15日、釧路市平和のモニュメント建立期成会により建立。


噴水塔の子ども像。作者などは不詳。栄町平和公園の噴水は、1975年に設置された釧路市最初の噴水とのこと。像もその頃の制作だろう。訪問時は、水がばんばん出ていて、よく見えないので、写真は、翌早朝、改めて撮影したものを掲載。(2018.6.7撮影)

  • 釧路湿原 野外彫刻がお目当てとはいえ、やはり、せっかくここまで来たのだから、釧路湿原も訪ねてみることにした。木道を歩いたり、カヌーに乗ったりと釧路湿原の楽しみ方はいろいろあるようだが、まずは広大な湿原を一望するべく、どこか展望台に行ってみることにした。観光サイトを見ると、大方は湿原の西側にある釧路市湿原展望台を紹介しているが、個人のサイトを見ると、西側からよりも、東側の展望台を薦めているものが多い。ということもあり、評判のいい細岡展望台に行ってみることにした。釧路駅で釧路-釧路湿原駅の往復きっぷを購入。720円。割引きがあるわけでもないので、別に片道でもかまわないが、券売機に往復きっぷがあったので、これにした次第。JR釧網本線で、釧路駅16:05発の列車に乗車。1両編成のワンマン運転。最初は空いていたが、ぎりぎりで老人が集団で乗り込んできて、席が埋まった。釧路湿原駅には16:23到着。ここで数人の乗客が降りた。釧路湿原駅は無人駅で、ホームは上り・下り兼用の1本のみ。線路の向こうはすぐに湿原だ。列車待ちのための駅舎もあり、飲み物の自販機がある他、注意書き・案内などが張り出してあった。



  • 展望台に向かう。ルートは2本あり、駅前から急な階段を上がっていく急坂ルートと、ゆるやかな坂を上がっていく駐車場経由ルートの2ルート。後者のルートの方が時間はかかるが、まあ、時間に余裕もあるので、こちらのルートを行くことにした。10分も歩くと、駐車場に出て、すぐそこに細岡ビジターズラウンジがあった。ここは帰りに立ち寄ることにして、細岡展望台に向かう。数分歩くと、展望台に折れる細道があり、この道をたどる。と、急に目の前が開け、広大な湿原が見えた。釧路川が蛇行しながら湿原を横切り、きらきらと水面を光らせている。遠くには、雌阿寒岳雄阿寒岳も見える。雄大な景色が広がる。耳を澄ませるまでもなく、いろいろな鳥の声が聞こえてくる。しばし時を忘れ、景色を楽しんだ。




  • 帰りも同じルートを歩く(といっても、ビジターズラウンジまでは同じルートだが)。途中、少し小高くなったところあった展望台にも上がってみる。視界がやや狭く、さきほど訪ねた展望台に比べると、いまいちか。帰りの列車まで、時間があるので、ビジターズラウンジに立ち寄る。ちょっとした展示や案内所や売店がある他、ゆったりとできる待合スペースがあった。ここでしばらく休憩した後、駅に向かった。帰りの列車は、釧路湿原18:25→18:46釧路の予定。オンタイムの運行で、釧路駅に到着。途中、行きは気づかなかった(というか、そもそも知らなかった。ビジターズラウンジで放映していたビデオで知った)岩保木水門が見えた。(釧網本線は列車の本数が少ないので、要注意なのだが、1時間ほど後に19:36発の列車があり(終列車だが…)、こちらにすれば、日暮れの景色が見られたかもしれない。)



  • 釧路駅からは徒歩でホテルに向かう。途中、例によってスーパーなどに立ち寄る。今日宿泊したホテルは、ホテルアクシアイン釧路。中堅のビジネスホテルといったところか。Wi-Fi、ウォシュレットなども付いていたが、(冷蔵庫はあったものの、)網走のときと同じようにエアコンはなかった(暖房のみ)。今日は暑いので、窓を開け、扇風機を回して、なんとかしのぐ。同じフロアに宿泊の運動部の団体客が微妙にうるさかった他は、特に難はなし。