かけらを集める(仮)。

日記/旅行記+メモ帳+備忘録、みたいなものです。

田川伊田→直方→博多

  • 7:00過ぎに起床。身支度をして、1Fで朝食。8:00過ぎにチェックアウト。朝食のときに飲んだコーヒーが色のついたお湯だったので、隣の7で、ずいぶんましな笑100円コーヒーを買い、今日最初の目的地の石炭記念公園に向かう。ホテルから歩いて10分ほど。
  • 石炭記念公園は、筑豊最大の炭田、三井田川鉱業所伊田坑(第三坑)の跡地(1964年3月閉山)に整備された公園で、炭鉱遺跡である竪坑櫓(伊田第一竪坑櫓)や二本煙突(伊田竪坑第一・第二煙突)、石炭・炭鉱に関わるさまざまな資料を展示する田川市石炭・歴史博物館などの他に、石炭・炭鉱にかかわる多くの碑が設置されている。


石炭記念公園。東側の多目的広場から西側を見る。左側に立っているのが二本煙突、右側に立っているのが竪坑櫓、その左側の赤い建物が田川市石炭・歴史博物館。この公園を会場に、毎年11月には「TAGAWAコールマインフェスティバル〜炭坑節まつり〜」が開催され、多くの人で賑わうとのこと。今日は、まだ朝早かったためか、公園には犬を散歩させる人やウォーキングをする人が少しいるだけだった。




田川市石炭記念公園の、《炭鉱夫之像》。1982年の建立で、制作は山名常人。昭和10年代の、仕事を終えて帰途につくヤマの夫婦をイメージしたものとのこと。確かに坑夫像の中では、珍しく和やかな印象のものだ。山名常人(1910-2005)は、長野県飯田市出身の彫刻家。他に、慶應義塾大学日吉キャンパス図書館前の福沢諭吉胸像、同湘南藤沢キャンパスメディアセンター脇の福沢諭吉胸像、島根県益田市雪舟山水郷の雪舟禅師像、北海道恵庭市恵庭市立図書館前の《進取の像》など。



新旧の炭坑節の碑。(上)「炭坑節発祥の地」は《炭鉱夫之像》の左側にあり、碑の前方に設置されている説明板に近づくと炭坑節が流れる。(下)「炭坑節之碑」は《炭鉱夫之像》の右側に設置されている。


これは、種田山頭火の句碑。「廃坑若葉してゐるはアカシア」。文学関係では、他に橋本英吉文学碑があった。


二本煙突の北側の小高い丘の上に、「田川地区炭坑殉職者慰霊之碑」があった。近くには、他に「強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑」、銅像「坂田九十百(つくも)先生」(第4代田川市長/在任:1955〜1979)、少し離れたところに「韓国人徴用犠牲者慰霊碑」が立っていた。


二本煙突こと、旧三井田川鉱業所伊田竪坑第一・第二煙突。伊田竪坑開設時に、巻上機と付属設備として設置された蒸気ボイラーの排煙用として築造された。高さ約45.45m。炭坑節で「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろう」と唄われたあの煙突である。巻上機の動力が電力に変わると、煙突は病院や炭鉱の風呂焚きなどの排煙に使われたが、三井田川鉱業所の閉山とともに、使用が中止された。


で、煙突の根元で、お休みになっている方がいた!


旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓(第一坑)。伊田竪坑は1905年に工事が始まり、1910年に完了した。竪坑は二つあり、この第一坑は入気用、第二坑が排気用だった。櫓はイギリス様式のバックステイ形。高さは28.4mで、鉄製。現在、筑豊に残る唯一の竪坑関係の遺跡。


エレベーター籠のような形をしたものが、ケージ。2段式で、これに人や炭車を載せて、竪坑を上がったり下りたりした。


旧三井田川鉱業所伊田竪坑・第二竪坑櫓跡。第二坑(排気用)の櫓は、直方市石炭記念館に移築されたが、1992年に解体され、今は残っていない。


中央のテーブル状の山(春香山一ノ岳。石灰石の採掘により、山容を変えた)の手前の小高い山が、現在も山容を残している田川地区唯一のボタ山(旧三井田川鉱業所第六坑ボタ山)。

  • 田川市石炭・歴史博物館 筑豊炭田の石炭産業に関するさまざまな資料、炭鉱記録画を中心とする「山本作兵衛コレクション」(2011年にユネスコ世界記憶遺産に登録された)などを展示する石炭鉱業史の博物館。1983年に田川市石炭資料館として開館、2005年に田川市石炭・歴史博物館に改称した。1Fの第一展示室と野外展示場(大型機械類の展示)では、石炭産業史、石炭科学史、石炭文化史、石炭生活史といった内容の、この地の石炭をめぐる総合的な展示がなされている。この他、炭鉱住宅を復元した施設があったが、これは工事中で、今回は立ち入ることができなかった。2Fには、山本作兵衛コレクションを展示する第2展示室と田川地方の考古資料、歴史資料、民俗資料を展示する第3展示室がある。山本作兵衛コレクションの展示は複製画が中心。原画は2点だけだった。複製画でも特に差し支えがあるわけではないが…受付近くで、グッズも売っていた。その中から「田川市まち歩きガイドブック 炭都田川を歩く 炭坑町たがわウォーク」という冊子を購入。100円。
  • ひとわたり博物館を観覧の後、次の目的地の田川市美術館に向かうことにする。、大きな碑が立っていたので、途中の小公園で足を止める。


「林田春次郎翁頌徳碑」。林田春次郎は、伊田村長、伊田町長、福岡県議会議員、福岡県議会議長、田川市の初代市長(在任:1943〜1946)を歴任した人物で、一貫して伊田、およびに田川市の発展に寄与したとのこと。この碑、当初は、台座の上には、銅像が立っていたのだが(1937年建立)、例によって戦時中に供出され、台座の上には写真のような碑が建てられた(グーグル先生に尋ねたところ、銅像の古絵葉書を見ることができた)。すぐ近くに林田春次郎旧邸が、料亭あおぎり、と名を変えて、国指定の登録文化財として、現在も残っている。

  • 田川市美術館 玄関のドアが故障していて、サブエントランスから入る。まず、企画展 アーティストの反骨精神「沸点の現象」を観覧。観覧料600円。昨年度、同美術館で開催された開館25周年記念 アーティストの反骨精神「沸点」の続編的な内容の展覧会とのこと。九州在住のアーティスト50名の作品を展示している。絵画・平面が中心の展覧会で、作風もまちまち。若い美術家も何人かいたが、どちらかというと、50、60代が多い印象。ローカルな環境の中で作品を作り続けるということはいったいどういうことなのかということを、つくづく考えさせる展覧会だった。常設展示として、山本作兵衛の炭坑記録画などを展示するコーナーもあったが(観覧料100円)、ごく小規模のものだった。原画2点ほか。この他、館内のロビーなどに、彫刻作品がいくつか設置されていた。淀井敏夫など。
  • 美術館を後にし、田川伊田駅まで歩いて戻る。田川12:45→13:15南直方御殿口、400円。当初は終点の直方まで戻るつもりだったが、次の目的地は南直方御殿口の方が近いようなので、ここで降りた。空が曇り、いささか怪しい天気になる。ちらちらと雪がぱらついたりもする。すぐに止んだけれど。とにかく寒い。数分歩き、遠賀川の河原に出た。国道の大きな橋を避け、木製の橋を渡り、遠賀川彦山川の合流点にできた三角州?に渡る。三角州では、野球の大会でもやっているのか、ユニフォーム姿の野球少年たちがたくさんいる。ランニングをして川を渡ってきた一団に、またしても「こんにちは」と声をかけられる。小高くなったところに、遠賀川水辺館があり、ここでトイレを借りる。目指す坑夫像はもう少し北側の河川敷公園にある。




  • 直方の坑夫像





遠賀川中洲の、《坑夫像「炭掘る戦士」》(1954/1996移設。セメント)。地元有志の発案により、直方出身の彫刻家・花田一男が制作。当初、この坑夫像は当初、国鉄直方駅前のロータリーに設置され、石炭とともに栄えた地域のシンボルとして長く市民に親しまれた。1996年、駅前ロータリーの改修に伴い、現在地に移設された。移設にあたっては、多くの市民から移転を惜しむ声が寄せられたという。石炭歴史公園の坑夫像がどこか昔を追憶する懐かしさのある作品だったのに対し、この像は、復興を支える、生活を支えるという確固とした意志を強く感じさせる作品だった。

  • 直方市石炭記念館 しばらく周辺を歩いた後に、もう少し上流にかかった木橋を渡り、土手を上がった。市役所の前を通り、へいちくの線路にかかった跨線橋を渡り、直方市石炭記念館まで歩く。記念館は、1971年7月開館。本館、別館、石炭科学館の3棟の屋内展示施設があり、他に機関車や構内炭坑機械を野外に展示する他、建物の裏手に救護練習坑道があった。別館で、受付を済ませると(入館料:一般100円)、簡単にスタッフ(名札を見たら館長だった)から概要の説明があり、あとは自由に見学した。いろいろと興味深い資料が展示してあったが、中でも興味深かったのは、さまざまな炭坑にかかわる絵画が展示してあったこと(別館2F)。炭坑の絵画というと、山本作兵衛画を思い起こすわけだが、それ以外にもいろいろな経緯で描かれた、さまざまなタイプの美術があることを知る。
  • 本館は、もともと1910年(明治43)8月に、炭鉱経営者で組織された筑豊石炭鉱業組合の直方会議所として建てられたもので、内部には構内模型などの他、さまざまな救命器具や構内で用いられた照明器具の類が時代順に展示してあった。ここは、九州炭坑救護隊連盟直方救護練習所として、救護練習坑道を用いて、救護隊員の養成が行われたそうで、1968年12月の閉所まで延べ約1万人の救護隊員を養成したとのこと。なお、別館2Fで、企画展として、筑豊石炭鉱業組合直方会議所で開かれた会議の議事録の一部が展示してあった。
  • 炭坑に関わる美術の展示が多いことは先にも書いたが、中でも興味を引いたのが、本館2Fに展示の柏原覚太郎による坑夫を描いた大きな絵画。この絵画は1944年(昭和19)に描かれたもので、もとは日鉄二瀬鉱業所本館の玄関正面に設置されていたとのこと。ひょっとしたら、設置された場所といい、描かれた題材といい、軍需生産美術推進隊の隊員として描いたものではないかと考えたくなるような絵画だった。


直方市石炭記念館。右が本館、左が別館。

門を入ったところ左手にある「直方救護練習所之跡」記念碑。坑道をイメージしたかまぼこ形の碑に、救護活動の訓練を描いたレリーフが埋め込まれている。

門を入ったところの右手にあった坑夫像《焚石に挑む》。作者や制作年など、詳細不明。

  • 続いて、石炭記念館の北側にある多賀神社を参詣し、直方の最後の目的地、貝島太助邸跡に向かう。
  • 多賀町公園/貝島太助邸跡 貝島財閥創始者筑豊の炭鉱王こと、貝島太助(1845-1916)の邸宅があったところで、邸宅跡であることを記した碑と銅像が設置されていた。現在では、遊具などもある公園になっている。




今回の旅行では、さすがにいないなと思ったら、いました! 直方市貝島太助邸跡の、《貝島太助翁》(1959.3設置)。制作・設計は北村西望! なお、同じく西望作の貝島太市(太助の四男で、後継者)の銅像が若宮市の天照神社境内にあるとのこと(長府の貝島太市旧邸からの移設)。

  • JR直方から、博多行きの快速に乗車。筑豊本線桂川まで行き、桂川からは篠栗線経由で博多へ向かう列車で、快速だと博多まで約1時間で行く。始発なので、適当な窓際席に座る。篠栗線に入ったあたりで、だんだんと混み始める。このまま博多まで行くつもりだったが、時間に余裕があるので、博多の一つ手前、吉塚で下車し、東公園で、彫刻を探ることにした。直方15:25→16:18吉塚、940円。東公園に向かう前に、駅前で腹拵え。とんかつ屋があったので、入ってみる。分厚いとんかつで、肉も軟らかくおいしかった。
  • 東公園 は、最初の福岡県立公園とのこと。県庁の東側の大きな公園だ。ここで探る銅像は、公園の北側、日蓮聖人銅像護持教会の巨大な《日蓮聖人像》と、東公園の真ん中の小高い丘の上に立つ巨大な《亀山上皇銅像》の2件。両像とも、巨大なので、探るまでもなく、目の前にぬっと現れた。



福岡市日蓮聖人銅像護持教会の、《銅像日蓮聖人立像(立正安国)》(1904)。この像は、福岡県警務部長湯地丈雄が1888年(明治21)に起こした元寇記念碑建設運動に共鳴した日蓮宗僧侶佐野前励により建設が進められたもの。制作を岡倉天心が引き受け、原型の木型制作は竹内久一、頭部・両手首の鋳造は岡崎雪声、本体部は佐賀市の谷口鉄工所が鋳造した。像高は10.6m。台座のレリーフは、矢田一嘯の原画による。





福岡市東公園の、《亀山上皇銅像(敵国降伏)》(1904)。銅像の原型制作は、高村光雲門下で、博多櫛田前町出身の彫刻家山崎朝雲。原型の木造は、現在、筥崎宮奉安殿に安置されている。この銅像は、元寇の際、敵国調伏を祈願した亀山上皇の故事を記念し、福岡県警務部長湯地丈雄らの長年の尽力により、元寇ゆかりのちであるこの地に建立されたもの。像高は約6m。

  • 福岡空港までは、地下鉄で移動。馬出九大病院前中洲川端福岡空港、300円。馬出は、まいだし、と読むのね。福岡空港が大工事中で、出発ロビーが道に迷ってどこかわからなくなり、しばらくうろうろしてしまう。やれやれ。無事に出発ロビーにたどり着き、保安検査場を通過し、ドでコーヒーなどを飲んで一息つく。帰りの飛行機はJetstar GK512便、福岡18:45→20:30成田の予定。ほぼオンタイムで搭乗がはじまり、19:05に福岡空港を離陸、順調に飛んで、20:30に成田空港に着陸する。T3近くに駐機して、到着ロビーまでバスで移動。2台目のバス。ロビーには20:45頃、出た。T3で少し時間をつぶして、21:25のバスに乗る。23:00前には無事に帰宅。