かけらを集める(仮)。

日記/旅行記+メモ帳+備忘録、みたいなものです。

宮崎

※2020.12.5、写真を追加掲載した。

  • 7:00頃、起床。身支度をして、1Fの朝食コーナーで朝メシを食べる。ごはん、ソーセージ、サラダ、ゆで卵、海苔、インスタントの味噌汁といったところ。部屋に戻り、一休みしてから、出発。風もなく、青空が広がっている。
  • 今日は、まず最初に今回の旅行のお目当ての平和の塔/八紘之基柱を観に行く。塔は宮崎県立平和台公園にある。目的地まではバスで行くのだが、平和台行きのバスは、ホテル近くの宮崎県立宮崎病院前のバス停から乗れるようだ。が、本数は1時間に1本程度とあまり多くはない。病院前8:49発のバスに乗る予定。土日は、何本か、塔により近い平和台公園レストハウスまで行くバスもあるようで、この8:49発のバスもレストハウス行き。8:00過ぎにホテルをチェックアウト。バス停まで5分ほど。少し周囲をうろうろしてみようと思ったが、何もないので笑、バスの経路を少し先まで歩いてみることにする。
  • バス停ごとに道を間違えていないか確認していたのだが、いつのまにか宮崎県総合文化公園の西側まで歩いている。そんなに歩いたつもりはなかったのだが…で、もちろん銅像があったのよ。今日、最初に遭遇した銅像は…、またしても小村寿太郎だった笑 宮崎総合文化公園には、郷土先覚者銅像建設委員会(だったかな? たしか、そんな名前だった)により、6基の銅像が設置されている。小村寿太郎石井十次、川越進、若山牧水、高木兼𥶡、安井息軒の6人の像だ。このうち、小村と石井の2像が公園の西側に、残りの4像が東側に設置されている。朝は、たまたま行き会った小村像と目に入った石井像の2像を、とりあえず、観覧。

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笹山幸徳《小村寿太郎》(2005)。シルクハットをかぶり、左手に手袋を持ち、右手でステッキを突いている。iPhoneのメモリーがいっぱいになり、「郷土先覚者銅像」の写真は小村像しか撮れなかった。まあ、ネットでいっぱい載っているし…
>参考:宮崎県郷土先覚者・宮崎県総合文化公園 銅像

  • ぼちぼちバスの時間になったので、最寄りの霧島4丁目バス停から、そもそも乗るつもりだったバスに乗車した。10分ほど遅れてきた。5分ほどで、終点の平和台公園レストハウス前に到着。170円。
  • 平和台公園は小高い丘にあり、古墳群や運動施設などもある広大な公園なのだが、今回は塔とその周辺を中心に歩いた。なにはともあれ、まずはお目当ての八紘之基柱を観覧する。(以下の情報は、説明板、wikiなどを参照。)

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かつては《八紘之基柱(あめつちのもとはしら)》と呼ばれていた《平和の塔》は、昭和15年(1940)の、紀元2600年記念奉祝事業の一つとして建設された。塔の設計は、彫刻家の日名子実三(1892〜1945)が担当。外形は御幣をイメージしたもので、高さは36.4m。正面には秩父宮雍仁親王による「八紘一宇」の碑文が掲げられ、四隅には信楽焼の4体の神像が配置されている。塔は、在外の日本人団体などから寄せられた1789個の切石を含む多くの石材を用い、延べ66500人の人員、67万円の総工費によって造られた。竣工は1945年11月25日。
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塔の正面向かって左から、《荒御魂》(あらみたま・武人)。「八紘一宇」碑文と、この《荒御魂》像は、敗戦後すぐの1945年8月に取り除かれたが、周辺が都市公園として整備されていくなか、美術工芸品としての塔の完全復元と保存の機運が生まれ、像は1962年に、碑文も1965年に復元された。
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《奇御魂》(くしみたま・漁人)
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《幸御魂》(さちみたま・農耕人)
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《和御魂》(にぎみたま・商工人) 神像から雑草が生えている。ラピュタの壊れてもう動かなくなった園丁ロボットを思い出したりして…
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「厳室」と呼ばれる塔内部に通じる入口の青銅の門。神武天皇が美々津から出航する場面が彫られている。内部には、碑文の元になった秩父宮雍仁親王の親筆と、日名子実三による石膏レリーフ8面(大国主命国土奉還、天孫降臨、鵜戸の産屋、橿原の御即位式、明治大帝御東遷、紀元二千六百年興亜の大業、太平洋半球、大西洋半球)が置かれている。内部は、この石膏レリーフ保存などのため、通常は非公開だが、年に1回(秋頃)公開されるとのこと。
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海外から寄せられた切石には、このように団体名が記されていた。これは「香港日本人会」から。
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礎石は装飾のない切石がほとんどだが、これだけ浮彫が施されていた。これは「南京日本居留民会」から。

  • 塔に隣接して、はにわ園/はにわ館がある。本部マサさんという方が作成されたはにわのレプリカ400基あまりがところ狭しと展示されている。このはにわ園を一回りしてから、駐車場から延々と続く階段を下りて、平和台公園を後にする。下に降りると、中学生の1団が、コーチとともに、陸上競技の練習か、繰り返しダッシュをしているのに出会った。ああそうか、宮崎は陸上競技に熱心なんだなと。ふと横を見ると、公園の入口横に、眼鏡をかけたおっさんの銅像が建っている。台座には、《相川勝六先生像》とある。ああ、八紘之基柱建設を推進した宮崎県知事か…と納得(官選知事を1937〜1939の間、務める)。銅像の制作は、菊池一雄。設置されたのは、1974年春とある。相川は1973年に81歳で亡くなっている。

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《相川勝六先生像》(1974)、制作は菊池一雄。

  • 宮崎県総合博物館 平和台公園から10分ほどふらふらと歩いて、宮崎県総合博物館まで。博物館の周囲には、野外彫刻がいくつかあった。柳原義達《道標=鴉》、舟越保武《原の城》、佐藤忠良若い女》、平原孝明《華》、保田春彦《都市・階段のある広場》、《都市・階段のある街角》。博物館は、1Fに自然史展示室、2Fに歴史展示室と民俗展示室があり、ともに充実した内容でおもしろかった。しかも、無料というのは、素晴らしいな。他に、特別展も開催していたが(こちらは有料)、日本刀の展示だったので、今回はパスし、先を急いだ。土曜日だが、あまり刀剣女子とかいなかったな。

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柳原義達《道標=鴉》(1968)


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舟越保武《原の城》(1971)


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佐藤忠良若い女》(1975)


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平原孝明《華》(1972)

  • 続いて、宮崎神宮を参詣。ここでも、結婚式のご一行に出会うなど。
  • 宮崎県総合文化公園/宮崎県立美術館 宮崎県総合文化公園がある場所は、もと宮崎大学農学部だったところで、1984〜88年にかけて農学部が移転した後に、東側に図書館、ホール、美術館などを、西側に芝生広場などを含む県民広場を整備した。公園の南東隅に、当時の門柱の一部と碑があった。野外彫刻/モニュメント関連は、美術館前の広場(文化広場)に、噴水などとともに、ジョージ・シュガーマンによる《イメージ・オブ・ミヤザキ》と題された鉄製のモニュメント群が設置されている。また、先述の宮崎県先覚者銅像建設委員会による銅像が6基置かれている。東側に北から安井息軒、高木兼𥶡、若山牧水、川越進の4像、西側中央に小村寿太郎像、北側西寄りに石井十次像といった具合。さらに、美術館の周りに安田侃と平原孝明の作品がそれぞれ1基設置されていた。美術館を訪ねると、企画展は開催されていなかったが、コレクション展を観ることができた。無料。館内の南側の1F・2Fにコレクション展の展示室があり、宮崎出身の美術家やイタリアの彫刻、そして、この美術館が重点を置いている瑛九の作品・資料などを観ることができた。観覧後、1Fの図書室に立ち寄り、ここで、河田明久編『日本美術全集18 戦争と美術』(小学館・2015)を見つけ、やっと中を覗く。やはり、これ持っておきたいな。

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宮崎県総合文化公園、東側正面。樹木の向こうに見える大きな建物が宮崎県立美術館。広場の手前、中央にジョージ・シュガーマンの鉄のモニュメントと右側に高木兼𥶡像が見える。
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なにやら要塞めいているが、宮崎県立美術館を正面から。

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安田侃《天泉》(1989)
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平原孝明《飛んだ日》(1983)

  • 宮崎市文化の森 中央公園 文化公園前14:00過ぎ発のバスで宮崎駅に向かう。駅まで戻ってきたら、14:30過ぎで、鹿児島空港へ向かうバスまで、まだ大分時間がある。駅中をうろうろして、地図を眺めていたら、駅の東口から歩いてすぐのところに、宮崎科学技術館があり、その周辺が公園になっているようだ。どうも、くさい笑 ということで、行ってみることにした。館の近くに、いかにも科学技術館らしい野外彫刻(抽象が2基)とロケットが設置してあった(どういうわけか、ロケットの前で女子高生3人がダンスの練習をしていたので(パフューム?)、おじさんは近寄れない)。周囲を歩いて見ると、ありましたありました、野外彫刻ありました。人物具象が6基(女性5、男性1)、虫!?具象が1基。他にモニュメントっぽい時計台もあった。ここの、人物具象の銅像、全部着衣像だった。ちょっと興味深いなと。これらが設置された時期には、裸体像がNGになっていたのかもしれない。このあたり、どうなのだろう? ちょっと調べてみよう。以下、人物具肖像を掲載する。(メモがあやふやで一部、作者、タイトルなどが怪しい?です。)

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満木攻一《挽夏》(1991.3)


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平原孝明《朴素》(1968/1985.3設置) 今回、宮崎で出会った野外彫刻の中では、いちばん好きかなと。


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松薗典子《汀》(1977)


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坂元典生《悠》(1992)


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森啓子《空と》


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  • ちなみに、宮崎市出身で、長く宮崎大学で教えた平原孝明(1943〜)の彫刻が印象に残ったので、観たものを一覧にしておく(※は写真を掲載したもの)。

宮崎市役所など、他にも数カ所ある模様。

>参考:平原孝明公式WEBサイト ※あまり更新されていない模様…

  • 最初は宮崎1日、鹿児島1日の旅程だったのだが、いろいろあって、宮崎2日になったので、帰りは飛行機のチケットを買っていた鹿児島空港から帰る。ということで、宮崎駅16:20の鹿児島方面行きのはまゆう号に乗車。はまゆう号は座席指定予約制の高速バスで、宮崎・鹿児島間を結ぶ。宮交バスと南国バスが運営。鹿児島空港までの料金はWeb割で2180円。宮崎市内の何ヶ所かで乗客を乗せ、その後、高速道路で鹿児島方面に向かう。宮崎自動車道を走り、途中、霧島SAで10分弱の休憩を挟み、九州自動車道を経て、溝辺鹿児島空港で高速道路をいったん下りて、鹿児島空港に、オンタイムの18:33に到着。土曜日の夕方なので、市内は渋滞かなと思ったら、その通りの渋滞で、高速道路に乗るまでに少し遅れが出たが、その遅れを取り戻し、予定どおりに着いた。日が暮れるまで、窓外に霧島山の姿が見えて、これがなかなかよかった。
  • 鹿児島空港で搭乗する飛行機は、Jetstar GK628。予定では、鹿児島20:15発、成田空港22:00着。使用機材の到着が遅れ、空港に着いたときには、22:35発に変更になっていた。飛行機は鹿児島空港を20:37頃離陸。成田空港には21:57に着陸した。出発は遅れたけれど、到着は定時だった。駐機場が少し遠く、バスも2台目だったので、到着ロビーに出たのは22:15近くになった。残念ながら、22:15発の終バスには間に合わない。T2に移動して、京成利用で帰宅した。今日のうちにはなんとか帰り着いたのであった。